2001年元旦号
【Tarchanより新年のご挨拶】
みなさま、あけましておめでとうございます。
いよいよ21世紀を迎えることになりました。 そしてこのHPもこんどの2月で開設以来5年目に入ろうとしています。 アクセス数もおかげさまでもうすぐ30万件に届くというところまできました。 ここまで来れたのもHPを見てくれた皆さんのお力添えがあったからこそだと思います。 ここに慎んで新春のお慶びとともに御礼申し上げます。
■ 今年度の受験を断念
昨年9月、いろいろ考えた末に、センター試験受験の申請を諦めました。
理由は二つあります。 一つはやはり学力不足、もう一つは学資金の問題です。
考えてみれば、一昨年の8月に唐突に東大受験を決意し、大学受験とはこういうものであるということを肌で感じたい意味もあってセンター試験を受けたので、入学後の生活設計まで考える余裕は全くありませんでした。 というより、「なんとかなるだろう」と軽く考えていたのです。
その後、自分でいろいろと大学について調べるようになり、単なるアルバイトでは勉学との両立はできないこと、せめて学資金・生活費など、4年間は働かなくてもいいくらいの資金は確保しておいた方がいいこと、などが分かってきました。 (東大に入るのには他大学からの「院試」という手段があることもあとで分かったのです。)
それくらい大学については無知でしたから、これからは 「なんとかなるだろう」 という甘い考えを捨て、今の自分自身の置かれている状況を冷静にわきまえ、現実的に対処して行こうと考えたわけです。
ひょっとしたら3〜5ヶ年計画くらいの長い道のりになるかもしれませんが、高校中退以来、もともと大学進学など考えもしなかった身であり、気の若さだけが取り柄のこの私です。 この 《意志の力》 が続くかぎり、大学での研究生活が始められるその日まで、一日一日の努力を地道に積み重ねていこうと思っています。
応援メッセージを寄せてくださった皆さん、ありがとうございます。 みなさんの声援に応えられるよう、これからも諦めずに頑張っていきます!
◆ 新春特別コラム◆
■ 新世紀の日本人として
人は何かを生み出すために活動しているのだと言えます。
それは人をより良い方向へ導くための何かであり、あるいは人をより美しい方向へ導くための何かです。
わたし自身の活動も、まさにそうした価値観に根差したものです。
わたしは自分自身の肉体改造を試みる過程で、「人間はどうあるべきか」 あるいは 「日本人はどうあるべきか」 を真剣に考えるようになりました。
わたしが西洋人の美しい肉体に憧れの念を抱いていることは、このHPを見てくださっている皆さんなら、もうすでにお分かりになっていると思います。 輝く金髪、大きな瞳、すらりとした長い脚など、すべてがわたし自身の変身願望や知的好奇心を刺戟するのに十分でした。
ただ、わたしとしてはそういった憧れを持っているだけではあまりに物足りないのです。 人は憧れるだけでは決して満足しません。 そういう美しさを崇拝する心が、今の自分自身にどう関わってくるのか、いかにしてその美しさに近づくことができるのかが、わたしにとって一番の問題なのです。
新聞やテレビなどでは毎日のように 「欧米では・・・」 という言い方がなされます。 経済力や技術水準ではもはや欧米先進国を凌ぐほどになったにもかかわらず、いまだにこういう言い方がなされ、わたしたち日本人にとって一定の影響力を持っているのは、考えてみればおかしなことです。
わたしが思うに、われわれ日本人はいまだに西洋を崇拝する心を少しも失っておらず、いや、「追いつき追い越せ」 の末、ついに対等、あるいはそれ以上になったという表向きの満足感とは裏腹に、かねてからの劣等感はかえって歪んだ形で意識の底に潜り込み、それとは自覚しない形で社会のあちこちで吹き出しているのではないでしょうか。 例えば、今日の金髪・茶髪染めの流行などは、まさにその具体例だといえるでしょう。
では、なぜわれわれの西洋に対する崇拝の念は衰えることを知らないのでしょうか。
わたしはその理由を次のように分析しました。
日本人の西洋崇拝の根底にはやはり 「肉体的な興味」 とりわけ 「性的な興味」 が横たわっているのではないか。 それが日本人がもとから持っていた 「外国に光を見て、それを崇拝する」 という舶来信仰の意識と結びついて、日本人のエロス的な力、すなわち 《エロティックパワー》 を刺戟していると考えられるのです。
もちろん日本人は西洋に対していつも興味ばかり抱いているわけではありませんでした。 特に幕末から昭和初期にかけて、日本人にとって西洋とは、それまでの異国情緒的な興味の対象から、まず真っ先に軍事的脅威として感じられるようになりました。 その当時、中国大陸はもちろんのこと、アジアの大部分はすでに西欧列強の植民地と化していました。 さらに北からはシベリアを南下するロシア、太平洋からはその侵略の触手を西へ西へと伸ばしつつあった新興国家アメリカの脅威が迫っていました。 (黒船来航はまさにこうした差し迫った脅威の夜明けを告げる象徴的出来事でした。 この時点で、すでに日本はアジアにおける最後の砦だったのです。)
それにもかかわらず、特に明治維新以降、政治、思想、文化、学問などあらゆる分野で、西洋は日本の近代化における崇拝の対象であり、模範であり続けました。 こうした二面性は現在でも続いていると思われます。
では、なぜ西洋人はあれほど世界中で悪逆の限りを尽くしながら、日本人にとって模範たり得るのでしょうか。 なぜ日本人は戦前はあれほど鬼畜米英と叫び、全土が空襲にさらされ、原爆を二発も落とされたにもかかわらず、戦後は手のひらを返したようにアメリカ文化にどっぷりと浸かってしまったのでしょうか。 なぜわれわれの西洋に対する興味と関心は尽きることがないのでしょうか。
それはとりもなおさず、エロスの力、すなわちエロティックパワーによるものと解さずにはいられないのです。 性的関心があるところに崇拝と憧れの源があるのです。 哲学者プラトンはこう言っています。
「すべての美は生殖を刺戟する。」 『饗宴』より。
幕末以来の日本人の思想的系譜、いわゆる 「和魂洋才」 も 「脱亜入欧」 も、そして戦後のアメリカ文化崇拝も、すべてはこの類に属するものではなかったでしょうか。
そこに通奏底音として流れていたもの、それはやはり極めて肉体的な、極めて性的な関心以外の何物でもなかったのです。 彼らの外観が日本人のエロティックパワーに火を付けたのです! 人はなんとも思っていない相手に対しては、ちょっとしたことでも腹が立つが、自分が好意を抱いている人間からは何をされてもあまり腹が立たない、生命に危険が及ばない限り、相当程度の悪をも許せてしまい、良い部分しか見えなくなってしまう、という心理と同一のものなのです。
それ以外にどういった説明が付けられるでしょうか。
もちろん、西洋人に対して無条件に尊敬や憧れの念を抱くことは、決して健全なあり方とは言えません。 盲目的な崇拝は危険ですらあります。 わたし自身アメリカとフランスに留学経験があるので、西洋人の中にも軽蔑すべき不徳の輩がいるのを肌で知っています。
にもかかわらず、そうした事実を差し引いてもなお、およそこの世のものとは思われない美しい西洋人に心惹かれることもまた事実なのです。 とりわけ少年少女たちの美しさ、可愛らしさは目を見張るものがあります。
このような美しい子供たちに出会って何も感じないような人間は怠惰であり、悲しい存在です。 (あの謹厳実直な福沢諭吉でさえ、アメリカへ渡って最初に撮った肖像写真には、その写真館の娘である12歳の少女を横に並ばせているほどです。) わたし自身、留学中に西洋の美しくて可愛い子供たちを目にしたり、一緒に話をしたりすることは、他の何物にも代えがたい愉しみでした。
CMや広告に頻繁に登場する西洋人モデル、あるいは少女漫画に見られるような、およそ日本人とは言い難い顔立ちの登場人物たち。 これらも西洋人に対する憧れや美的関心の素直な表現だといえるでしょう。 ヒーロー物に見る日本人の変身願望も、案外ここらへんから派生したものかもしれません。
*
しかし、われわれ日本人はこのままで良いのでしょうか。 ことここに至って、われわれはそろそろ自分たちの本当のあり方について真剣に自問自答すべき時が来たといえるのではないでしょうか。
われわれ 《新世の日本人》 は、もはや自分の追い求めるべき道を 「魂」 や 「空想」 の中に求めたり、あるいは表面的な物真似を繰り返すだけで西洋人と対等になったような気分を味わうだけの無邪気さに甘んじているべきではないのです。 (例えば、金髪や茶髪に染めたり、キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うことなどは、その最たるものです。)
憧れを持つことや真似すること自体は決して悪いことではありません。 それは人間誰しもが持つ素直な感情の表われだからです。 しかし、文化をより発展させていくためには、そうした舶来品を無邪気に有り難がるような低レベルな感覚とは、もはやきっぱりと縁を切るべきなのです。
大事なことは、魂や空想の中に理想を求めることではなく、ましてや海の向こうの表面的な文物を取り入れることではなく、自分自身の足元にある本当の美しさ、すなわち 《美しい肉体》 というものを、いかに自分自身のものとし、磨いていくかにかかっているのです。
肉体の美しさこそは、他の何物にも優る究極の価値なのです!
そのことを一番良く知っていたのは、古代ギリシャ人でした。 そして彼らの 《外面の美しさ》 への飽くなき探求心は、肉体だけではなく、衣装、生活調度品、建造物など、ありとあらゆる面で顕著に現れています。
この外面へのこだわり、すなわち 《アポロ的な価値》 の追求こそは彼らの最大の関心事だったのです。 だからこそ、彼らの文化はいつまでも輝きを失うことなく、二千年以上の昔から現在に至るまで、西洋人はおろか、われわれ日本人にも多大な影響を与え続けているのです。
ちなみに、わたしとほぼ同じ考えを持っていた人間は、現代では、あの 《エロスの人》 三島由紀夫をおいて他にはありません。 彼は言います。
「希臘(ギリシャ)人は 《外面》 を信じた。 それは偉大な思想である。」 『アポロの杯』 より
しかも、古代ギリシャの魅力が現在のわれわれにも影響を及ぼすことができるというのは、単にそれだけにとどまるものではないのです。
歴史には一つの法則があります。
それは 「魅力あるものはどんなに迫害されようとも必ず受け継がれ、魅力のないものはどんなにもてはやされようとも、いつかは捨てられ、忘れ去られる」 ということです。 したがって、かつて存在した魅力あるものは、いつでもよみがえる可能性を秘めているのです。
古代ギリシャがやがて衰運に向かったのは、肉体美の肯定という古き良き美徳を、彼ら自身が信じられなくなってしまったからです。
哲学者ニーチェが 《外観においても怪物。魂においても怪物》*1 と呼んだ、かの有名なソクラテスは、そうした頽廃期のギリシャに登場した象徴的な人物でした。 彼はそれまで信じられてきた肉体的な価値を徹底的に否定し、価値の転倒を図りました。 今日プラトンの著作によって知られるソクラテスの一連の哲学的活動はすべて、人々の目を肉体的価値から逸らすことに全精力が注がれています。
その彼が、デルフォイのアポロン神殿で 「ソクラテスより知恵ある者はこの世にいない」 という神託を下されたことは、アポロ的価値のその後の運命を予感させる悲劇的な出来事でした。 すなわち、アポロ的価値の最も過激な破壊者を肯定するにも等しい言葉が、まさにアポロン神の御社で告げられたことによって、おそらくそれから起こるであろう肉体と精神の分裂によってもたらされる肉体そのものの否定と精神的価値の興隆が決定的となった瞬間だったのです。 それは同時に、それまでギリシャ人にとって自明のものであった肉体美の肯定や神々への畏敬といったすべての美徳が、彼の膝元に屈した瞬間でもありました。
それ以降、ギリシャの命運は 「美しくあるためには知的であらねばならぬ」 という、ソクラテス=プラトン的価値観のもとに委ねられることになりました。 すなわち 《知》 という 「新たな神」 が人間の価値を判断する最良の基準として肉体に取って代わるようになり、ここに、それまで神々に愛され、神々とともにあった 《肉体の美しさ》 という価値は、その意味を完全に失っていくことになったのです。
*1 ニーチェ 『偶像の黄昏』 より。
*
それから二千数百年余の月日が流れました。 その間、いくつもの文明が栄え、そして滅んでいきました。 しかし、これからの人類は、未だかつて誰も経験したことのない新たな段階に突入することを、わたしは疑いません。
わたしは予言します。 もうすぐ魅力ある人間だけが生き残る時代がやってきます。 そして、かつて古代ギリシャ人が追い求めたような輝く肉体美を肯定する時代が再び訪れます。 その時には古来よりあらゆる賢者が語り継いできた 「精神と肉体」 という分裂状態は終わりを告げ、 「外見よりも中身」 などという使い古された戯言も、もはや過去の遺物として永遠に葬り去られることになるでしょう。
健全な文化は、肉体の美しさを素直に認める社会の中から生まれます。 古代ギリシャはその一つの頂点でした。 有史以来、あれほどまでに肉体美を肯定した文化はそれ以前もそれ以後も存在しませんでした。 古代ギリシャという、われわれ日本人とはあまりにも遠く隔てられた文明が、現在のわれわれの美意識の中にも深く根を下ろし、魅了することができるのは、ひとえに肉体美の肯定にあると言えるのです。
そこでみなさん、我ら日本人こそは、かつて古代ギリシャ人が希求して止まなかった究極の肉体美に再びその光を当て、アポロ的価値の復活の先鞭を付けようではありませんか。 わたしは日本人にはその実力があると信じています。
「謙虚に学ぶ」 というのは、日本人が誇る他のどの民族にも優る美徳でした。 しかし、これからの時代はもう一つ別の美徳も身に付けねばなりません。
それは 「いかにして魅せるか」 ということです。
すなわち単に学ぶ(真似ぶ)だけでなく、そこから自分自身が努力して、より魅力的かつより美しい人間になること。 そして願わくは、日本人自身が世界に向けて 「美の模範」 を示すこと、自らの手で新しい歴史を作ろうとする意志を持つことなのです。
世界の鑑(かがみ)としての日本人よ、単なる西洋人コンプレックスに甘んずる事なかれ! 西洋人よりも美しくなれ! 現に、そんじょそこらの西洋人など足下にも及ばないような美しい日本人は何人も、何百人も、何千人も、何万人もいるのだ!
わたしの編み出した方法は、すべての人々にそれを可能にするための最大限の助力になるものと自負しています。
今後のわたし自身も、ただ単に肉体改造を追求するのみに止まらず、それによって何を目指すのか、日本人はどうあるべきか、人間はどうあるべきか、という根源的な問いを発しながら、絶えず研究し、努力していきたいと考えています。
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