2002年元旦号 【Tarchanより新年のご挨拶】 みなさま、あけましておめでとうございます。 |
■今わたしがやるべきこと 早いもので、わたしが東大受験を決意して2年以上の月日が経ちました。 その間にも多くの皆さんからの暖かい応援メッセージを頂き、わたしとしては感謝の気持ちでいっぱいです。 しかし、不思議なことにわたしは全く焦っていません。 なぜなら、わたしにとって大学での研究はあくまで最後の切り札にすぎないからです。 わたしは実際のところ、まだサナギの状態です。 しかし、サナギはじっとしているように見えても、殻の中で体は確実に変化し、徐々に成虫になるための変身を遂げているものです。 きっと運命の女神がわたしに貴重な時間を与えて下さったのでしょう。 |
第13版 [2002年9月16日 第12回改訂] ◆2002年・新春特別コラム◆〜新世の日本人として2〜◆『天下布美』 の誓い◆
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■信頼関係と契約関係の違い ─与え尽くしの愛と見返りを求める愛─ この世には二つの種類の愛が存在します。 『与え尽くしの愛』 と 『見返りを求める愛』 です。
「あなたが生きていてくれるだけで、わたしはうれしい」 という愛。 これが与え尽くしの愛です。 このような愛情深い親に育てられた子供は、愛情をたっぷり詰め込んだ優しい子供に成長します。 その表情にも優しさが滲み出てとても可愛らしく映ります。 そのため、ますます人から愛されて、ますます愛らしい子供になります。 こうして、親以外の人間から愛を得るすべを自然に学びます。 このことが社会へ出てからの大いなる自信と安心感をもたらすのです。 一方、見返りを求める愛とは、条件付きの愛です。 つまり、
「わたしがあなたを愛するから、あなたもわたしを愛して欲しい。」 という、どちらかが愛を出さなくなったらそこで終わってしまう関係です。 このような環境で育った子供は、親から愛されるために、自分の本当の欲求というものを考えず、親が気に入ることを第一に考えて行動するようになります。 無償の愛というものを最初から与えられていないので、そのような愛が存在することすら知らずに育ちます。 そういう愛が存在するらしいということが次第に分かってきても、決して信じなくなります。 無償の愛をもらっても、何か申し訳ないような感じがして、すぐお返しをしたくなります。 また、自分に何か見返りを期待しているのだろうと、その裏を読もうとします。 このような条件付きの愛(契約的な愛)は決して悦びをもたらさない関係です。 お互いの不信がベースとなっているので、大変息苦しい関係となります。 お互いがお互いの満たされない愛を確認し合うだけで、何らプラスの感情が湧いてこない関係、むしろお互いのエネルギーを吸い取り、お互いの神経をすり減らしていく関係です。 現代社会は、まさに 「見返りを求める愛」 が中心となっています。 契約の観念に基づく人間関係といってもいいでしょう。 こうした契約に基づく関係が発達すればするほど、与え尽くしの愛は徐々に行き場を失い、殺伐とした人間関係だけが残ることになります。 たとえ関係が出来上がったとしても、すぐに終わってしまうことが多くなります。 電車でたまたま隣合って座った二人の関係と大して変わらないのです。 なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。 |
■商業の起源に関する発見わたしは昔から、「なぜ人は欲しいものを手に入れるのにわざわざ物々交換したり、お金を払ったりしなければならないのだろうか」 と疑問に思っていました。 欲しがっている人がいれば何の見返りも求めないで遠慮せずあげれば良いし、自分が何か欲しい時は遠慮せずもらおうとすれば良い。 また、自分が相手にあげる気がなければそれはそれで良いし、相手も自分にあげる気がなければそれはそれで良い、それが人間の本来有るべき姿であり、自然な姿である、とずっと考えていました。 しかし、こうした疑問を抱き続けてきたものの、肝心の 「なぜ人類は商業を始めるようになったのか」 ということがいまだよく分かりませんでした。 ところで、商業の起源が物々交換にあることは、よく知られていることです。 では物々交換はどのようにして始まったのでしょうか。 何が人を物々交換に掻き立てるのでしょうか。 「わたしがあなたを愛するから、あなたもわたしを愛して欲しい。」 ということです。 これが基本形式です。 そして、これはすべての契約関係の基本形式でもあります。 交換とは、見返りを求める愛が発展したものです。 そして、見返りの手段が 「愛」 という目に見えないものから 「物」 へと変わった時、実体経済(物々交換)が始まります。 物々交換とはまさに、満たされなかった愛情を 「交換」 という行為によってお互いに穴埋めすることなのです。 親や周りの人間から無償の愛が得られなかった人間が唯一愛を手に入れることのできる擬似的な関係、それが交換なのです。 |
■商業は 「見返りを求める愛」 が起源である「もらえなかった無償の愛を擬似的な関係によって穴埋めすること、これが商業の起源である」 ─このひらめきがわたしを襲ったのは、やはり岩月教授の本を読んでいる時でした。 以下に、わたしがそのひらめきを得た部分の内容を紹介します。
ここまで読み進んだ時点で、わたしは思わず 「あっ!」 と声をあげました。 そして、即座にひらめきました。 なぜ、そこまでして愛を手に入れなければならないのでしょうか。 では、なぜ見返りを求めようとするのか。 親の愛情不足(欠如)にその原因のすべてがあります。 親がそのままの自分を愛してくれなかったからこそ、人から愛情をもらう時にはこちらから何かをしてあげなくてはいけないんだ、あるいは、こちらが何かしてあげれば、相手もこちらに愛情をくれるようになるんだ、と錯覚しているのです。 |
■お金とは 「偽りの愛」 の証(あか)しである 無償の愛を得られなかった人間が、愛を手に入れるための唯一の手段、それが交換という行為です。 その本質は 「見返りを求める」 という点にあります。 お金は見返りの愛がもらえたことの証しとなるものです。 しかし、実際にはお金がいくら入ってきても虚しくなるばかりです。 なぜなら、本物の愛情は一向に満たされないからです。 寄ってくるのはニセモノの愛情を持つ人間ばかり。 したがって、入ってくる愛もニセモノばかり。 しかし、それでも本物の愛情はいつまでたっても手に入りません。 そうすると、その人間の心の中は怒りと不信で満ち満ちたものとなります。 そしてそれは当然、怒りと不信のサインとなって外見に現れることになるのです。 お金に執着すればするほど人間の顔は醜くなります。 異常な金銭欲を持つと、その表情に怒りと不信のサインがバンバン出てくるからです。 なぜ昔から商人というものが醜いイメージで捉えられ、また実際にそういう人間が多いのか、これで説明が付きます。(正確に言うと、お金に執着するタイプの商人です。 逆に、同じ商人であっても、あまりお金に執着しないタイプの商人の場合は、顔はそれほど醜くなりません。 中庸をわきまえているからです。) 本来、人間というものは親からたっぷりと愛情を注がれて育っていれば、お金などに執着しないものです。 たとえそれが生活していく上で必要なものであると認知しても、これといった興味を示すことはありません。 それ以上の気持ち良さや悦びというものを体験的に知っているからです。 実際、契約関係の中では純粋な愛は一切手に入りません。 そこにあるのはあくまで見返りを求める愛です。 見返りを求める愛に対する本能的な拒否感情を持っている人間にとっては、まさにエネルギーを吸い取られていくだけで、何ら悦びの感情が湧いてきません。 こんな見返りを求める愛のやり取りなど本物ではない、すべてニセモノである、と本能的に感じ取ってしまうのです。 しかし、そのままでは愛情飢餓は永遠に癒されることはありません。 これは親から無償の愛を得られなかった人間でも薄々感じていることなのです。 |
■契約関係からは愛や信頼や美は育たない 契約関係というものが人間にどういう悪影響を及ぼすことになるのか、家族関係を例にとってお話ししたいと思います。 夫婦間の愛情が欠けていると、夫婦関係そのものが契約的になることは言うまでもありません。 新婚当初は盛り上がった関係であっても、それ以降はただ単に同居している二人です。 お互いが真の愛情に満たされていませんし、夢も希望も失っています。 本来、子供の無限の幸福を願うことこそ、親の役目であるはずです。 決して見返りを求めたり、嫉妬したりして、子供の幸福を妨害してはいけないのです。 そして、子供にとっては親よりも幸福になることこそ、親に対する最大の恩返しになるのです。 決して親に遠慮したりして不幸になってはいけないのです。 片方が犠牲になって片方を悦ばせる関係からは、決して信頼関係は生まれません。 そこにあるのは一方が一方を必要以上に恐れたり、お互いがお互いを不信の目で見る関係です。 こうした人間の心の中では、絶えず欺瞞が発生しています。 つまり、嫌悪を好き、軽蔑を尊敬、不満を感謝という具合に置き換えることによって、自分の本当の気持ちよりも、まずは家庭で生き残ることを優先させてしまうのです。 親から愛されなかったり、親の幸福のために自分の不幸をいとわなかった人は、将来必ず誰かが幸福になるのを妨げることによって、不幸な自分の穴埋めをしようとします。 人は誰でも自分の人生をあきらめると、みんな不幸の方がいい、と思うようになるからです。 この時、犠牲の対象となるのはアカの他人はもちろんのこと、兄弟姉妹、友人、恋人、夫(あるいは妻)、嫁姑、そして自分の子供です。 自分が幸福になることが親の幸福であったはずなのが、それができなかったばかりに、本来親の代で止まるべき不幸の連鎖の片棒を担いでしまうのです。 そして、こういう人間にかぎって親元にいつまでも同居しては、せっせと親孝行に励んでいたりするものなのです。 ここから言えることは、自分や他人を犠牲にして成り立つような幸福などどこにもない、ということです。 あるのは 「わたしもうれしい、あなたもうれしい」 か、「わたしもつまらない、あなたもつまらない」 のどちらかです。 もし、あなたが親に気兼ねして自らの幸福を棒に振るようなことがあるとしたら、間違いなく不幸の連鎖の中に組み込まれているといっていいでしょう。 すなわち、親から見返りを求められているということです。 親の子供に対するこのような見返りを求める愛を、岩月教授は 「呪い」 と表現しています。 親自身が純粋な愛情に満たされていないと、その埋め合わせを子供の幸福を犠牲にすることによって果たそうとするのです。 不幸な親はこれ以上自分の不幸を意識しないようにするために、子供に呪いをかけてしまいます。 こうした呪いは通例母親がかけます。 なぜなら、父親の子供に対する嫉妬というのは、直接的な暴力やセクハラ、あるいはののしりといった目に見える形で現れることが多いのに対し、母親の嫉妬は、たいていの場合、悲しみには同情することはあっても悦びには決して共感しない、言葉で言わないかわりに不機嫌な態度や悲しげな表情をしてみせる、病気になる、などの 「受容拒否」 という消極的な形となって現れることが多いからです。 つまり 「発覚しにくい」 ということです。 だからこそ 「呪い」 なのです。 自分の親からこのような二重の信号を受け取ると、子供は混乱してしまいます。 ですが、子供はもともと 「親から見捨てられたら生きていけない」 という弱みを持っています。 こうしたことから、やがて親の言葉やその素振りの背後に隠された裏の真意を汲み取るようになり、自分の本当の感情を押し殺した、いわゆる 「いい子」 になろうとするのです。 そうした飢餓感はやがて怒りに変わってきます。 このような怒りが外に向かうと、いじめ、万引き、恐喝、暴走行為、家庭内暴力、強姦、殺人などの他虐的行為となって表れます。 しかし悲しいかな、そうした子供の切実な訴えというのは、たいてい親に届くことはありません。 なぜなら、そもそも親自身に子供の幸福に嫉妬しているなどという自覚がないからです。 ですから、自分の子育てによもや失敗があったなどとは夢にも思いません。 子供がなぜそういう行動に出るのかも理解できません。 こうして親子の心のすれ違いはますます大きくなっていきます。 |
■第一希望を選択しないことが不幸の連鎖を招く 親は誰でも子供の幸福を願うものである、というのは、残念ながら幻想に近いものがあります。 親は昔から子供の幸福に嫉妬してきたのです。 どんなに愛情深い親でもそうです。 ところが、親自身が不幸だと、子供の幸福に嫉妬するばかりで、子供の真の幸福を願うことができなくなってしまうのです。 むしろ 「あなたを愛するのはわたしたちだけだよ」 「他の人から愛情を受け取ってはいけないよ」 ということをあらゆる機会をとらえて教えようとします。 しかも、それを子供が本来必要とする量の愛情を与えないことによって教えようとするのです。 そうすることによって、親よりも幸福になってはいけない、という限定された幸福しか子供に許そうとしないのです。 「実の親ですら自分の幸せを願ってくれなかった。 ましてや親以上に自分の幸せを願ってくれる人なんかこの世にいるはずがない」 ─ここからいわゆる人間不信が発生します。 親の子供に対する嫉妬は相当に根が深く、巧妙に仕組まれます。 しかも、それは一般に問題があると言われる家庭だけではなく、一見平和そうに見える家庭でも嫉妬の嵐が渦巻いている場合が多々あるのです。 もともと子供のわがままには必ず際限があります。 親の本当の優しさを感じた時です。 そうした親の愛情を子供が感じ取るまで、親は可能な限り、子供のわがままを叶えてあげるべきなのです。 このような仕打ちを受けた子供は、ほぼ例外なく 「どうせこの親には何を言ってもムダなんだ・・・」 と思うようになります。 こうして次第に自分の意見を押し通すことのできない、第三、第四、第五希望ばかりを選択する人生がスタートすることになります。 どうしてそのような間違った選択をするようになるのでしょうか。 第二の問題は、見下しの感情が働いていることです。 自分よりも哀れで弱い部分を持つ人間を見た時に働く優越感を 「好き」 と勘違いしてしまうのです。 そういう相手だと劣等感が刺激されなくて済むのです。 むしろダメな人間の方がほっとするのです。 お互い傷のなめ合いができるからです。(暴力夫に耐える妻というのは、たいていこのケースに当てはまります。 たとえ日常的に暴力を振るわれても、一緒に生活しているだけで見下しの快感が得られる、保護者気取りになれる、ないはずの母性がくすぐられる、などの理由で、収支はプラスマイナスゼロか、それ以上となるのです。) 第三の問題は、見捨てられ恐怖が働くことです。 すでに家庭において一度否定されて育ったので、これ以上誰からも否定されたくないばかりに、自分を否定しそうな人間を見ると無意識に近づいていっては尻尾を振ってしまうのです。 「あなたの奴隷になるかわりに、わたしを見捨てないでほしい」 という見返りを求めているのです。 自分からは愛を出さないのに、相手からは愛してほしい、という極めて自分勝手な要求です。 親から聞いてもらえなかったわがままが、こういう所で顔を出すことになるのです。 第四の問題は、改造願望が働くことです。 そういう人間だからこそわざわざ自分から近づいていっては改造したくなるのです。 本当は好きではないけれど、自分の力で何とかすれば今の状態から変わってくれるという密かな期待を込めているのです。 しかし、そうした努力は実ることはありません。 たいてい失敗に終わります。 しかも、回を重ねるごとに悲惨の度が増していきます。 すべての悲劇は、第一希望を選択していないという、まさにそこから始まっています。 第一希望とは、「自分が一番好きなことをする」 「自分が一番好きな人と付き合う」 ということです。 一見単純なことですが、これがなかなかできない人が多いのです。 本来、人は何の障害もなければ迷うことなく第一希望を選択するはずです。 ましてや自分で自分を不幸な状況に追い込むようなことは決してしないはずです。 それでも第一希望を選択できないということは、やはり何かが邪魔していると考えるしかないのです。 嫉妬が家庭の中にあると、家庭は必ず崩壊します。 今崩壊しなくても、世代を経るごとに不幸の度合いが増していき、やがて家系そのものが途絶えます。 たとえ血の繋がった関係であろうとも、悦びの感情が生まれない関係というのは、いつか必ず破綻するものだからです。 こうした不幸の連鎖は一度どこかで断ち切らなければなりません。 このままでは子供たちはますます歯止めが効かなくなって、ますます荒れていくことでしょう。 そして、ここままではやがて誰も子孫を残そうとする意欲も薄れ、やがて種の破滅へと突き進んでいくことになるでしょう。 |
■なぜ外見が大事なのか 人は愛し、愛されてこそ、自分が何者であるかを実感できます。 この場合の愛とは、何の見返りを求めない愛、無償の愛です。 本来、父親や母親、そして人生の先輩たちが何の理由もなしに子供たちに注ぐべき純粋な愛、あるいは、男女の間に芽生える相手を無条件に思いやる気持ちのことです。 そこでわたしは、まず 「形から入ること」 を皆さんに説いていきたいと思います。 人から純粋な愛を注いでもらうためには、まずこちらから純粋な気持ちで人に接しなければなりません。 その 「純粋な気持ちで接している」 という最良の証しとなるのが、ずばり外見なのです。 人間の性格というものは、これら外側に現れてくるものすべてを総合して判断されます。 決して 「性格そのもの」 なるものがあって、それをもとに判断しているわけではないのです。(ですから、性格とは見ている人の判断のうちに存在するもの、見ている人の判断そのものと言うこともできます。 つまり、その人間をどう見ているかという心の表現でもあるのです。 人を判断するということは、見ている人自身の性格も問われているのです。) 美しい外見はそれ自体で 「わたしに純粋な愛をください」 「わたしを無条件に愛してください」 という立派なサインになります。 どんなに高潔で道徳的な行いよりもはるかに強烈なサインです。 美しい外見が身に付くようになると、自分のいいところがよく見えてきます。 そして、自分にいいところを見つけた人間は必然的に他人のいいところも積極的に見つけたくなります。 こうして自然に他人と純粋な愛を受け渡しする環境が整ってきます。 これがいわゆる 「愛と信頼と美の関係」 の基礎となるものです。 そういう人間に向かって 「外見よりも中身」 などと主張することは、まさに最大級の冒涜なのです。 「存在するな!」 と言っているようなものです。 そして、そういうことを言う人間に限って、自分の外見に自信がないものです。 外見に自信のない人間は、他人の外見のみならず、その人間の長所や功績というものをなかなか認めようとしないものです。 認めれば即、相手が上、ということになってしまうからです。 自分の外見に自信があれば、必然的に他人の良さも素直に認めることができるようになります。 なぜなら、たとえ相手がその長所や功績においてどんなに上であっても、自分の外見的優越性はそれによっていささかも揺らぐことはなくなるからです。 それはなぜか。 まさにそこにあるものだからです。 嘘偽りのない神聖なものだからです。 |
■人間にはもともと寿命というものはない 人間にはあらかじめ二つの運命が約束されています。 うんと幸福になるか、あるいは、うんと不幸になるかのどちらかです。 中間はありません。 中間を歩むことはあっても、最終的には必ずどちらかの道を選ぶことになります。 人は自然の摂理に則った生き方をしているかぎり、生きる意欲が失われることはありません。 したがって、人間が自然に老化して死んでいくなどということは本来ありえません。 死には必ず理由があるのです。 不自然な生き方、不幸を不幸とも思わない生き方をしているからこそ病気になり、老化し、死に至るのです。 「人間を含めた生物には、もともと寿命というものはない。」
氏はその理由として、まず次の五つの可能性を挙げます。 (1)カラスは死期が近づくと、どこか人目につかないところへいって死ぬ─ しかし、これらの仮説はいずれも確証に欠け、実際、氏もそう結論付けています。 矢追氏はこの本の中では最終的な結論は出してはいないのですが、これらの仮説に替わる一つの説明として、別の人物が提唱している 「波動法(あらゆる物質はエネルギー波動の振動数の変化によって消えたり現れたりする)」 なるものを紹介していますが、これはあまりにも突飛な理論で、当然ながらまともにとり上げるわけにはいきません。 では、一体どうしてカラスの死骸が見当たらないのでしょうか。 ここで、皆さんの中には一つの疑問が湧いてくるかもしれません。 つまり、個体が死なないで子孫を作り続ければ、その種は増え続ける一方では? という疑問です。 では、人間に寿命というものが訪れるようになったのは、いつ頃からでしょうか。 つまり、人間が社会というものを形成した時に初めて寿命が発生したのです。 それまでは寿命というものはなかったのです! あるのは不慮の死だけでした。 歳を取れば誰でも死を迎えるという老化の観念すらありませんでした。 老人や大人や子供という区別もありませんでした。 病気も何か偶然的なものによって引き起こされるのではなく、本人の意志の衰退が原因と考えられました。 実は、契約関係というのは人間に老化をもたらす最大の元凶なのです。 あえて言うなら、鳥かごの中で飼われている鳥、水槽の中で飼われている魚と大して変わらない生活なのです。 鳥かごや水槽の中で飼われている状態というのは、鳥や魚にしてみれば明らかに異常状態です。 このような状況下では、どんなに豊富にえさをやっても、どんなに清潔にしても、やがて病気にかかり、死んでしまいます。 このようなことになる最大の原因は、言うまでもなく純粋な愛情の欠如です。 社会構造上、与え尽くしの愛が出せない状態になっているからです。 契約関係というのが、それを不可能にするのです。 しかし、希望が無いわけではありません。 もともと老化や死には必ず理由があります。 純粋な愛の欠如による意志の衰退こそ老化や死をもたらす最大の元凶なのです。 愛のない生活を送っているからこそ、人間は老けてくるのです。 決して歳を取ったからではありません。 生きるとは、まさに河の流れに逆らって上流へと泳ぐ行為であるといっていいでしょう。 現代医学は、そもそも病気や老化に対する考え方が根本的に間違っています。 意志の衰退こそ病気や老化の真の原因なのです。 意志が衰退するからこそ、免疫力が低下し、病気になるのです。 ウイルスに感染するから病気になるのではありません。 意志の力が強ければ、たとえウイルスが入ってきたとしても発病しないのです。 人間は本来ありとあらゆる病気に打ち勝つ力を有しています。 その意味で、「病は気から」 というのは全く正しいのです。 いかに名医と言われる人が、どんなに最新の医療施設でどんなに最善の治療を行ったとしても、最終的にはやはり、病気の回復とはその人自身の意志の力に委ねられているものなのです。 生きているとは、悦びがある、ということです。 このまま人々が契約的な関係を続けていって経済的な繁栄を謳歌しようとすれば、いつか必ず破局が来ます。 増えすぎた種は 「大量死」 を迎える時が必ず来ます。 これが自然界の掟です。 その時、生き残れるか、生き残れないかを決めるのは、与え尽くしの愛を出せるかどうかにかかっています。 見返りを求める愛しか知らない人間は真っ先に見捨てられます。 |
■『天下布美』 の誓い ─愛と信頼と美の世界を作るために─ わたしは社会を変えるための二つの法を提示しました。 一つは美しい外見、もう一つは永遠の生です。 エロスと不老長寿こそ、人々の間の不幸の連鎖を解く鍵となるものです。 人々に生きる意欲のきっかけを与えてくれるのは、いつでもエロスと不老長寿への願望なのです。 日常生活のすべての活力の源はここから始まっているといっても過言ではありません。 そして、人々が愛と信頼と美によって結ばれるようになれば、人々の間からあらゆる不自然さが取り除かれることになります。 そうなれば当然、農業も、商業も、法律も、国家でさえも、その存在理由・存在価値が無くなり、やがて廃(すた)れていくことになるでしょう。 これは間違いありません。 不幸の連鎖はわれわれの代で断ち切ろう! 愛のある世界をわれわれ自身の手で作るのだ! こうした思いを、わたしは 「天下布美」 という言葉に託しました。 『かんたん!筋肉緊張ダイエット』管理人:Tarchan |
<参考文献>
■家族のなかの孤独 ミネルヴァ書房 ※ 敬称略 |